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| 張遼衣冠墓(ちょうりょういかんぼ) | ||
![]() | 場所 | 合肥市逍揺津公園内 |
| アクセス | 汽車站から歩いて20分。バイタクで3分。 | |
| 解説 | 逍揺津公園の一帯は、魏側兵800が、呉の孫権軍10万を破ったところである。その後張遼は呉の国々の人々におそれられるようになった。一応ここは衣冠塚となっているが、彼の墓と考えるほうが何か感慨深い。 | |
| コメント | (KEN)到達 張遼関連の遺跡はほとんど無いに等しいので彼のファンはここは必ず押さえておきたいところ。/2001年3月 【2007年8月】公園内は三国志と張遼の雰囲気が色濃くなっており、三国志ファンにはたまらないつくりになった。もとにあった墓の前の石碑が湖の小島に移されてしまったのでお金を払いスワンボートに乗らなければ到達できない(笑) | |
| 張遼墓(ちょうりょうぞう) | ||
![]() | 場所 | 合肥市逍揺津公園内 |
| アクセス | 同上 | |
| 解説 | 元は衣冠塚だったが、それが公園内の小島に移されたのを機にこれが墓へ昇格(笑) | |
| コメント | (KEN)到達 かなり整備されてしまったが相変わらず人民にとってはあまり身近な存在じゃない?2007年8月 | |
| 張遼像(ちょうりょうぞう) | ||
![]() | 場所 | 合肥市逍揺津公園内 |
| アクセス | 同上 | |
| 解説 | 合肥市人民政府が命をかけて作り出した傑作(?)。あまりの出来のよさに張遼を知らない人でも必ず足を止めてしまうほど。 | |
| コメント | (KEN)到達 張遼像があまりにかっこよすぎる〜張遼ファンならずとも必見!!/2001年3月 / 2007年8月 公園の入り口に移動されています。5元 | |
| 三国文化歴史館(さんごくぶんかれきしかん) | ||
![]() | 場所 | 合肥市逍揺津公園内 |
| アクセス | 同上 | |
| 解説 | 張遼墓の横に新設された三国時代に関する展示館。見所豊富。 | |
| コメント | (KEN)到達 三国時代の歴史を豊富な展示物によって紹介してくれている。入場料が20元と高くいずれなくなると思うので早めに(笑)2007年8月 | |
| 三国新城遺跡(さんごくしんじょういせき) | ||
![]() | 場所 | 市西15km州里崗郷古城村南、南肥河北岸、鶏鳴山東麓 |
| アクセス | 省博物館前の小バスターミナルから300路のバスに乗り「三国遺跡公園」下車(約50分)。下車後、左の道を進み20分ほど歩くと公園の入り口に到着(25元)。 | |
| 解説 | 魏と呉の攻防戦となったところで、魏の拠点だった。 | |
| コメント | (KEN到達 2007.10) 土山が一周するように残っており、当時の土塁をガラスで保護しているところもある。素晴らしく整備されているが、辺鄙な場所にある上、入場料が高いため人民には不人気か。陳列館を見逃さないように。魏ファンは押さえておきたいところか。旧合肥城に比べると淮南への撤退も簡単で守りやすかったのがよく分かる(旧合肥城は四方から攻められやすい) | |
| 陳思王墓(ちんしおうぼ) | ||
![]() | 場所 | 肥東県八斗嶺 |
| アクセス | 合肥東バスターミナルから八斗鎮までのバスが出ており、一時間半。八斗中学の南西に位置するところに塚はある。 | |
| 解説 | 陳思王は曹植のことで、この墓はここに駐屯していた曹植を記念して造られた墓である。元々碑はあったのだが現在行方不明。墓一帯を整備して碑の再建をする計画があるが、資金不足により頓挫中。本物の墓は山東省東阿県の方にある。 | |
| コメント | (KEN 2007.12)到達 いかにもな記念性の墓であるが、ないよりまし。八斗では大抵の人が知っている。 | |
| 曹植古井(そうしょくふるいど) | ||
![]() | 場所 | 八斗老街 |
| アクセス | 八斗老街を東に進み、写真屋(照相館)の手前の民家の道を入ると到着。 | |
| 解説 | 曹植が当時ここに80万の兵を駐屯させていた際、この地が極端に干ばつ地域で水が不足しているのに気づいた彼が、兵士に井戸を掘らせ現地の民を水不足から救ったという。元々、3つの井戸があったらしいが、2つの井戸は民家の下に埋まっているらしく、残るは1つのみ。この井戸も1000年以上一度も水が枯れたことがないらしい。 | |
| コメント | (KEN 2007.12)到達 歳月の流れを感じる古井戸である。誤って15m下の井戸に落っこちないように(大人が入れる大きさではないが・笑) | |
| 李鴻章墓(りこうしょうぼ) | ||
![]() | 場所 | 合肥市合裕路 |
| アクセス | バスもあるが(市内地図参照)本数少なく面倒。市内からタクシーで15元もあれば十分到達可能。 | |
| 解説 | 清の有名人李鴻章のお墓。日本との下関条約締結に関する中国側代表者。合肥のメインストリートには彼の生家跡もある。非常に良く整備されており、環境がよい中で彼も安らかに眠れていることだろう。彼が北京で刺客に襲われた際着ていた服の展示物は必見(なまなましいが。。。) | |
| コメント | (KEN 2007.12)到達 見ごたえ十分! | |
| 包公墓(ほうこうぼ) | ||
![]() | 場所 | 合肥市内包河公園南 |
| アクセス | 包河公園には包公祠もあるので一緒にまわりたいところだが、ここの入り口は別途公園の南の道側にあるので意外に分かりにくい。 | |
| 解説 | 中国の大岡越前(本人には失礼だが。。)こと包公のお墓。もともと彼は肥東出身だが、死後ここに葬られた。墓苑内には彼の妻、子孫の墓もある上、彼のお墓の墓室まで参観可能。 | |
| コメント | (KEN 2007.12)到達 彼の一族の家訓を参考にしてほしい。 | |
| 包公像(ほうこうぞう) | ||
![]() | 場所 | 肥東県中央ロータリー |
| アクセス | 八斗へ行く際通るので見ることが出来る。合肥市内から肥東行きのバスに乗って肥東バスターミナル下車でも可能。 | |
| 解説 | 中国の大岡越前(本人には失礼だが。。)こと包公の故郷であることを示す石像。 | |
| コメント | (KEN 2007.12)到達 かっこよくてしびれます。シャッターが間に合わなかったので横から撮る羽目に(笑) | |
| 李典墓(りてんぼ) | ||
![]() | 場所 | 合肥市紫蓬山 |
| アクセス | 合肥市内の西門換乗中心(バスターミナル)から紫蓬山行きの旅遊バスに乗って一時間。入り口から李典墓近くの西廬寺まで一時間の徒歩。李典墓は西廬寺から下山後10分程の仙人洞(巨石がたくさんあるところ)の下にある。 | |
| 解説 | 魏の将軍李典のお墓。 | |
| コメント | (KEN到達 2007.10) かなりの山登りを覚悟しなければならない上、バスの終点から登山口まで歩いて30分ほどかかり、かなりの時間を見ておかなければならない。それにしても何故こんなところに彼の墓があるのかは謎だが、大事に保護されるのは我々としても嬉しいところ。 | |
| 袁術墓(袁氏狐堆)(えんじゅつぼ) | ||
| No Picture | 場所 | 長豊県水家湖鎮西北28km楊公廟鎮西南3km |
| アクセス | 拠点を合肥、准南か寿県に定めれば目的地に着くのは容易。 合肥からが一番便利かも。合肥の数あるバスターミナルからぽこぽこ出ている。 安徽省内を運行しているバスターミナルなら絶対ある。 | |
| 解説 | 袁紹の弟袁術の墓。一時は孫策から奪い取ったぎょくじを手に皇帝を 名乗ったが劉備に討伐され、落ち延びながら最後はここで迎えた。ただ、これは 昔から民間人達がそうだと言って伝わってきただけなのだが、考古学的考証は 経ており間違いないだろうと言われている。地元では袁氏狐堆と呼ばれている。 | |
| コメント | (NUNO-78)(てぃえんびえん)到達 うわ〜すげえー濃い墓。よくこんなのが残ってたなあ。碑もあるわけでもなく土山もなく跡地が残るだけ。どうやら文革で壊されたらしい。歴史マニアは感動できるだろうが、一般人にはピンとこないだろう。2001年12月 | |
| 朱然墓(しゅぜんぼ) | ||
| No Picture | 場所 | 馬鞍山市 |
| アクセス | 駅前の13路バスに乗り終点『大治村』下車すぐ | |
| 解説 | 呉の大将朱然の墓。この墓から出てきたものは当時の文化を知る上で相当価値があるらしい。が、いかんせんマイナー武将の為ぴんとこない人も多いかも。 | |
| コメント | (NUNO-78)情報提供 行ったことがあると思っていただのだが実はここにいかず李白墓に行って、その後行くのを完全に忘れていたのよね( ̄▽ ̄;;/ | |
| 馬鞍山(うまくらやま) | ||
| No Picture | 場所 | 馬鞍山(そのまんまかい!) |
| アクセス | 近くまではバスを確か使用した。 | |
| 解説 | 項羽が対岸の烏江で死ぬ間際、烏江の亭長が項羽の愛馬烏すいを預かり対岸に連れて行こうとしたが、烏こうは項羽のもとへ行こうとし結局溺れ死んでしまった。その烏すいがつけていた鞍が対岸にたどり着きそこが山になったと言い伝えられる場所。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 別に山自体に入ったり登ったりしたわけではない。遠くから見ただけ(オイオイ)/2001年10月 | |
| 覇王祠(はおうつ) | ||
| 場所 | 馬鞍山対岸和県烏江鎮 | |
| アクセス | 南京下関バスターミナルから和県行きのバスに乗り、 烏江で途中下車。約一時間〜二時間 | |
| 解説 | 項羽を祀る廟。項羽が最後に死んだのは烏江である。それからもここの廟の価値は高い。当時この付近を流れていた河と現在の河の位置はかなり変わっていて風景的には想像しにくいが、項劉記ファンなら一度は訪れるべきところだろう。見所満載! | |
| コメント | (NUNO-78)(てぃえんびえん)到達 私は項羽の自刎したところでとても胸がこみ上げて辛くなってきた。よく出来た廟だと思う。/2001年10月 | |
| 万寿塔(ばんじゅとう) | ||
| No Picture | 場所 | 和県郊外 |
| アクセス | 和県のバスターミナルからバイタクに乗って30分ほど。 | |
| 解説 | 孫権が母親のために建てたという塔。塔自体はとても小さい。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 観光代金を払うわけでもないし、きちっと整備されているわけでもないが中々趣のある塔である。/2001年10月 | |
| 春申君墓(しゅんしんくんぼ) | ||
| 場所 | 准南市南 | |
| アクセス | 合肥から准南行きのバスが出ているため、市内に到達するのは容易。駅前から6路バスに乗り蔡家崗下車後、近くの5路バスで終点まで乗って調整。その後は歩きで到達できる。鎮政府横(要地図) | |
| 解説 | 楚の名宰相春申君の墓で、戦国時代の四大才子のうちの一人。春申君は若い時には才気にあふれており主君の為に自分の命を 投げ出したりする一角の人物だったが、晩年は女に惑わされて どたばたの中で刺し殺されてしまった。死後、この場所に埋められた。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 とりあえずは地図を手に入れてなんぼ。准南は横にくそ長い街なんで、観光にはちょっと時間がかかる。最近整備されたのか妙に綺麗である。/2001年11月 | |
| 劉安像(りゅうあんぞう) | ||
![]() | 場所 | 准南市 |
| アクセス | 合肥から准南行きのバスが出ているため、市内に到達するのは容易。火車の駅前にこの像がある。 | |
| 解説 | 漢の高祖劉邦の孫淮南王劉安の像。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 像はかなりかっこよく今のところ私の一番のお気に入りの像である。/2001年11月 | |
| 虞美人墓(ぐびじんぼ) | ||
![]() | 場所 | 霊壁 |
| アクセス | 合肥長途汽車バスターミナルから高速バスに乗り4時間。霊壁からバイタク。 | |
| 解説 | 悲劇のヒロイン虞美人の墓。項羽の愛姫で四面楚歌後、項羽を鼓舞する舞を踊った後足手まといになることを嫌い自害した。京劇でも”覇王別姫”で有名なシーンを演じられているのもこの悲劇に同情する人が多いということか。彼女が本当に存在したのかどうかは定かではないが 項劉記のファンにはたまらない遺跡である。 | |
| コメント | (てぃえんびえん、KEN)到達 彼女は生まれた所と死んだところが異常に近いのが何か変な感じがします。2001年11月 | |
| 垓下之戦場跡(がいかこせんじょうあと) | ||
![]() | 場所 | 霊壁南(シ豪)城鎮(垓下鎮) |
| アクセス | 合肥長途汽車バスターミナルから高速バスで固鎮県まで3時間。固鎮県到着後(シ豪)城行きのバスに乗り30分で到着。 | |
| 解説 | 項羽が劉邦に挑んだ最後の決戦跡であり、四面楚歌の舞台ともなったところ。地形を見る限りここに追い込んだ韓信の頭のよさには納得できる。現在は人民政府が何百万という米ドルを投資したおかげで旅遊区となっており、雰囲気が。。。笑 | |
| コメント | (KEN)(てぃえんびえん)到達 ここで最後の決戦が行われたのかと考えると何だかじんとくる。/2001年4月、2008年1月 | |
| 周瑜墓(しゅうゆぼ) | ||
![]() | 場所 | 廬江東 |
| アクセス | 合肥からバスに乗って一時間半で廬江まで行ける。後は歩きと聞き込みで到達可能。 | |
| 解説 | 呉の名将周瑜の墓。演義ではこてんぱに孔明にやられた かんがあるが、実際はものすごい頭のきれた人物だったと思う。岳陽で死後、色々な土地を通り最後に彼の故郷であるここに埋められたとされている。 | |
| コメント | (NUNO-78)(せーべん)到達 当時訪れた時は墓の周辺から出ていた樹がぼうぼうで何事かと思ったが、今は改修されてしまったらしい。/2001年9月 | |
| 陳勝呉広起義旧跡(ちんしょうごこうきぎきゅうせき) | ||
![]() | 場所 | 宿州市西寺坡鎮渉故台 |
| アクセス | 宿州までは合肥、准南等からバスで容易に到達できる。 | |
| 解説 | 秦の末期農民を主導して反乱をおこした陳勝と呉広の起義の場所。 | |
| コメント | (ティエンビエン)到達 実際の場所は宿州から東南の方向にありかなり遠くアクセス不便。バイタク利用の可能性激高。 | |
| 廉頗墓(れんぱぼ) | ||
![]() | 場所 | 八公山郷(赤β)家(土干)村紀家郢放牛山南坡 |
| アクセス | 寿県を拠点にしておけば後はバイクタクシーで余裕でクリア。付近の人間は大抵知っている。 | |
| 解説 | 春秋・戦国の趙の名将廉頗の墓。宰相の藺相如との『刎頚の友』の話は有名。 彼は年をとってから秦の白起将軍が趙を攻めたときにろう城作戦をとって苦しめ たが、敵の流言により失脚。最後は楚の国で亡くなった。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 墓はかなり立派で十分満足。草木が生い茂る時期に行くと墓の外観が著しく損なわれるのはこの墓だけではあるまい(泣)/2001年11月 | |
| 淮南王墓(わいなんおうぼ) | ||
![]() | 場所 | 寿県北門西北3、4km |
| アクセス | 寿県を拠点にする。 | |
| 解説 | 漢の高祖劉邦の孫劉安淮南王の墓。彼の父が早くして亡くなった為16歳にして淮南王に即位。広く人材を求め人望をあつめた。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 墓の規模は中々のもので見ごたえあり。管理所のおっちゃんは中々歴史に詳しい。ちなみに入り口には豆腐発祥地がここ寿県であることを示す石碑がある。皆さん知ってました? | |
| 荀ケ墓(じゅんいくぼ) | ||
| No Picture | 場所 | 寿県南門外 |
| アクセス | 寿県を拠点にする。 | |
| 解説 | 曹操に仕えた当時の名軍師で、数々の策略を巡らし曹操を助けた。曹操が王位に就こうとするのをさんざん諌めた結果疎まれここ寿県で亡くなったとされている。 | |
| コメント | (NUNO-78)情報提供 捜索は2度とも失敗。寿県文物管理所にも直接電話をかけて色々調べてもらったが結局記載も何も出てこず。無念! | |
| 八公山(はちこうざん) | ||
| No Picture | 場所 | 寿県北3.5km八公山 |
| アクセス | 寿県場内からバイタク乗ってはい到着。 | |
| 解説 | 歴史上で度々重要な戦争が行われてきた場所で、各国の要害となった地域である。秦が楚を滅ぼす時に一大決戦となった場所であり、後の始皇帝となる秦王政が名将王翦に軍60万をつけてここに派遣し楚を破り天下統一となった。その後は劉邦が項羽を追い込むためにここに、英布にここを攻めさせ当時の寿春を占領。項羽の退路を断ち有名な四面楚歌の舞台である垓下へ追い込んだのである。ちなみに八公山の”八公”とは言い伝えによる著名な方術士八人がここに集まり仙術について語っていたとされる由来からきている。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 今は公園として整備されており、頂上から見渡す景色は中々のもの。/2001年11月 | |
| 荀攸墓(じゅんゆうぼ) | ||
| No Picture | 場所 | 寿県 |
| アクセス | 不明 | |
| 解説 | 荀ケのいとこ荀攸の墓。今のところ全てが謎 | |
| コメント | (NUNO-78)情報提供 つか情報提供にならないぐらい全く情報無し( ̄▽ ̄;; | |
| 伍奢墓(ごしゃぼ) | ||
| No Picture | 場所 | 利辛県城西北20km |
| アクセス | 利辛県は阜陽市の東北にある。拠点は准南、寿県に定めるといいだろう。 | |
| 解説 | 呉の英雄伍子胥のお父さん伍奢の墓。奸臣の讒言により伍子胥の兄と殺されることになってしまったが、息子の伍子胥が復讐を果たした。 | |
| コメント | (NUNO-78、ティエンビエン)情報提供 う〜ん素晴らしい。伍子胥の父上の墓があるなんて。でも、文革で壊されたとかどうなのか分からないが捜索時見つからず。2001年4月 | |
| 范蠡墓(はんれいぼ) | ||
| No Picture | 場所 | 渦陽県城東南15km范蠡林 |
| アクセス | 渦陽県は利辛県の北にある。拠点も上記参照。 | |
| 解説 | 越の功臣范蠡の墓。この人物の人生の晩年は逸話が多く、この墓が本当のものなのかは少し分かりかねる。中国の学会では山東省にある墓が本物だという結論に至っている。(清代の石碑が出てきたところがそうらしい) | |
| コメント | (NUNO-78)到達 墓自体は中々の規模。安徽省人民の方々につくづく感謝します。/2001年11月 | |
| 曹操運兵道(そうそううんへいどう) | ||
| 場所 | 亳州市内人民南街を北上し人民中路を右に曲がってすぐ | |
| アクセス | 輪タクかバイタク | |
| 解説 | 曹操がこの地下道で兵士の訓練をしたと言われてるところ。実際にはこの遺跡は三国時代のものではないらしいが、曹操は許昌にも同じような地下道を建設していたことが知られており、曹操が建設したのが始まりと考えてもいいのかもしれない。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 漏水がひどく復旧のために参観が不可能だったのは誠に残念なり!!/2001年10月 | |
| 張園墓(ちょうえんぼ) | ||
| No Picture | 場所 | 亳州市内魏武大路 |
| アクセス | 輪タクかバイタク。地図に載ってます | |
| 解説 | 曹操一族の墓の一つと言われているもの。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達未遂(笑) なんだこれは?と思い入らなかったが後で曹操関連の墓だと知って後悔。/2001年10月 | |
| 薫園二号墓(しょうえんにごうぼ) | ||
| No Picture | 場所 | 魏武大路三中の横 |
| アクセス | 輪タクかバイタク。地図に載ってます | |
| 解説 | 曹操一族の墓群。ここの西に一号墓もある。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 何でかしらんが入れなかった。なんでじゃ?/2001年10月 | |
| 華祖庵(かそあん) | ||
| 場所 | 亳州市内永安街 | |
| アクセス | 新華路を北上し右手二つ目の道に入りすぐ | |
| 解説 | 華佗の家。ここで華佗は患者の治療をしたり、薬を栽培していたらしい。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 結構広い敷地で華佗の医学に対する思いがなんとなく伝わってくる。/2001年10月 | |
| 花戯楼(かげきろう) | ||
| 場所 | ??地図に載ってます。 | |
| アクセス | タクか歩き | |
| 解説 | 一応関帝廟だが、岳飛の廟や曹操一族墓群から出土したものを展示している。 ここには曹操の父と言われる曹嵩の遺体が展示されている。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 昔の町並みが残る狭い路地を突き抜けて行ってあるとこなんで、歩いて行くのも一興かも。/2001年10月 | |
| 四女孤堆(よんじょこつい) | ||
![]() | 場所 | 亳県礁城区城父鎮北后鉄営村西 |
| アクセス | 亳洲→亳県とバスで移動、その後バイタク。 | |
| 解説 | 言い伝えでは四人の仙女のお墓。考古学的な考証によると、地下の墓室などの構造は漢代のものだという。 | |
| コメント | (ティエンビエン)到達 /2001年10月 | |
| 章華台(しょうかだい) | ||
![]() | 場所 | 亳県礁城区城父鎮 |
| アクセス | 亳洲→亳県とバスで移動、その後バイタク。 | |
| 解説 | 楚の国の離宮跡と言われている。同じ遺跡が楚国領域内にいくつかあるがこれはその一つ。この台を作るために多くの民が労働に駆り出され国が疲弊していったと言われている。 | |
| コメント | (ティエンビエン)到達 当時の楚国の国土の広さにびっくりするばかりである。/2001年10月 | |
| 曹山(そうざん) | ||
| No Picture | 場所 | 市東5km竜子河畔 |
| アクセス | バイクタクシーとかになるでしょう | |
| 解説 | 曹操が屯兵をさせていたと言われている場所。 | |
| コメント | (NUNO-78)情報提供 これは石碑とかが残っているわけではなく、『ああ、ここがそうなんだな』と思い偲ぶことしかできないところ。 | |
| 魯粛屯兵処(ろしゅくとんぺいじょ) | ||
| No Picture | 場所 | 東郊外李楼郷境内 |
| アクセス | 市内からアクセス可能でしょう多分 | |
| 解説 | 魏と呉の争奪戦の時、魯粛が屯兵していたといわれているところ。 | |
| コメント | (NUNO-78)情報提供 安徽省ってこういう怪しい遺跡多いよなあ・・ | |
| 東呉水軍操練旧址(とうごすいぐんそうれんきゅうせき) | ||
| No Picture | 場所 | 繁昌県新林鋪郷袋湖 |
| アクセス | 蕪湖市までは南京から二時間蘇州汽車北站から四時間、馬鞍山から一時間そこからまたバスで移動する | |
| 解説 | 呉が水軍の鍛錬をしたと言われているところ。 | |
| コメント | (NUNO-78)情報提供 一応地図では確認できてないが地名だけで何とかなるか!? | |
| 黄蓋墓(こうがいぼ) | ||
| No Picture | 場所 | 繁昌県黄墓渡鎮 |
| アクセス | 繁昌県からバイタクになるかな。と思ってたけど繁昌県からのアクセスだと 河越えをしないといけないので少し遠回りになる。だから蕪湖から南へ向かい 最寄の鎮で途中下車、そっからバイタクって感じになるか | |
| 解説 | 赤壁の戦いの功労者であり有名な苦肉の策の諺にもなった呉の名将黄蓋の墓。ここの地名の由来はここに彼の墓があるということでつけられたという。 | |
| コメント | (NUNO-78)情報提供 まさかこんな墓があるとは思いもよらなかった!!!拠点を蕪湖にすれば何とか いけそうだ | |
| 魯粛墓(ていえんぼ) | ||
| No Picture | 場所 | 定遠 |
| アクセス | 合肥から定遠行きのバスが出ている。そっからは聞き込みにかかっている | |
| 解説 | 呉の魯粛の墓。ここ定遠は魯粛の故郷で、魯粛を記念して造られた墓である。 これまた碑など無い上に山がぽこんとあるだけ。 | |
| コメント | (NUNO-78)(てぃえんびえん)到達 地元民に教えられ偶然発見したとは言うものの、山の上に何故か民家らしきものが・・(絶句)/2001年11月 | |
| 范増墓(はんぞうぼ) | ||
![]() | 場所 | 巣湖市県城東北3.5km旗山麓 |
| アクセス | 市街地から16路バスで旗山までいける。後は聞き込めば何とか分かるだろう。 | |
| 解説 | 項羽を支えた稀代の名軍師の墓。彼の故郷は元々この一帯で以前は居巣と呼ばれていた。漢楚合戦の最中、漢の離間工作にのせられた項羽が范増を疎みしまいには彼を追い出してしまった。彼は徐州から故郷の居巣に戻る途中病死。死後、故郷である居巣に埋めれらたのである。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 知っている人間が付近にいるのがせめてもの救いだが、肝心の墓は山の勾配の険しい森林草木が生い茂る道のない場所にある為、人によっては難しいかもしれない。墓マニアンの経験が問われる墓。【2004年1月】 | |
| 亜父祠(やふつー) | ||
| No Picture | 場所 | 旗山北西麓小李村 |
| アクセス | 方向的には亜父井があった亜光村の前の道を更に奥に進むと小李村に到着する。 | |
| 解説 | 名軍師范増をまつる祠。旗山は別名亜父山と呼ばれ、范増を偲ぶような名前となっている。ちなみに亜父は項羽が范増を父とあがめる意味合いでつけた尊称である。 | |
| コメント | (NUNO-78)情報提供 当時道がどえらいことになっており先に進めず断念。【2004年1月】 | |
| 亜父井(やふじん) | ||
| No Picture | 場所 | 旗山南麓亜光村 |
| アクセス | 旗山麓のか細い道を入り進んでいくと到達する。 | |
| 解説 | 范増にゆかりがあるとされている井戸らしいが、詳しいことはよく分からない。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 消滅確認済み。現在は存在しない。【2004年1月】 | |
| 亜父公園(あふこうえん) | ||
![]() | 場所 | 鼓山 |
| アクセス | 市街地から16路バスで近くまで行ける。 | |
| 解説 | 一応旗山が亜父山と呼ばれているのだが、何故かここもそう呼ばれている。とにかく范増を記念する意味合いで作られたと思われる公園。頂上には塔が立っているので分かりやすい。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 ボリタクにぼられ怒り心頭で山道を歩く羽目に。【2004年1月】 | |
| 范増亭(はんぞうてい) | ||
![]() | 場所 | 鼓山亜父公園内 |
| アクセス | 上記参照 | |
| 解説 | 范増を記念して作られた亭。別に何か特別なものがこの中にあるわけではない。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 完全なる山登りをしなくてはならないが、道が整備されているだけまだまし。【2004年1月】 | |
| 亜父像(あふぞう) | ||
![]() | 場所 | 鼓山亜父公園内 |
| アクセス | 上記参照 | |
| 解説 | 范増亭と同じく范増を記念するために作られた像。像は范増自身が眠る南の方向を向いている。 | |
| コメント | (NUNO-78)到達 像はそれなりによく作られていて好感触。【2004年1月】 | |
| 昭関(しょうかん) | ||
| 無図像 | 場所 | 巣湖市含山県北7.5km昭関 |
| アクセス | 合肥のバスターミナルから含山県行きが出ている。 | |
| 解説 | 呉の有名人伍子胥が父親と兄を讒言で殺された際、楚を脱出するときにこの関を通って呉の方へ逃げていったと言われている。ここから彼の復讐ストーリーが始まると言ってもいいかもしれない。 | |
| コメント | (NUNO-78)情報提供 | |
| 馬蹄泉(ばていせん) | ||
| 無図像 | 場所 | 含山県昭関南 |
| アクセス | 上記参照 | |
| 解説 | 伍子胥が昭関を抜けた後、追っ手から逃げるときにこの場所を馬で走っていたとされている。 | |
| コメント | (NUNO-78)情報提供 | |