なぜ、日本の外交は頼りないのか
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日本人は我が国が単なる経済大国であることを忘れてしまっている
連日、報道される日本外交の難局、連日、テレビではトップニュースとして扱われ、そうした報道により、我々日本人は不安やもどかしさを感じている。
しかし、マスコミも矛盾だらけであり、弱体化の一途をたどっている。かの小沢一郎氏のカネにまつわる問題では、取材の限りを尽くし、各社、世論調査の結果を順に報道するなどして徹底的に掘り下げ、今や国民のほとんどが先入観を抱くほどまでに世論を形成させた張本人でありながら、憂国日本の外交問題に関しては、報じっ放し、そのあとの始末がない。
「ペンの力」とはよく言われたものだが、マスコミは国民の知る権利や知的好奇心を満たすだけの情報産業と化してしまっている。戦後60年かけて拝金体質となったマスコミは、インターネットによる情報流通の革命に飲み込まれたただの文筆屋でしかない。もはや、使命を完全に忘れてしまったのである。
そして、弱体化といえば、戦後、時間をかけて骨抜きにしてしまった制度がある。それは、国家の根幹を成す議院内閣制である。
国会や内閣は、選挙で選ばれた議員から構成されるが、この費用は国費支弁されるため、いわば国家公務員である。その国家公務員、なんと私的利害の集約団体である政党に属することが認められているのである。歴史上、政党そのものの存在を認めないわけにはいかないので、これはやむなしとしよう。ただ、国家権力の私的利用は、政党という組織だから許されると言うわけでもない。取り違えれば、極めて危険な構図になる、つまり、かの国のような独裁国家と紙一重の仕組みなのである。
そして、更にである。「数は力」なりという論理のもとで、政党は数集めに走るのである。また、議員という国家公務員にとっても、政党の支援がないと選挙をパスできないという社会構造になってしまった。
なぜなら、国民が忙しくなったからである。戦後、国民は元の生活を取り戻すことに必至だった。議員候補者の「国のため、国民のため」という考えに耳を貸す余裕などない。「憂国日本」よりも「憂う我が身」が先立つ、そんな状況であったのは敗戦日本にあった苦渋の現実である。
そして、政党に経済的な利害調整が持ち込まれるようになり、国民総経済活動の最中、政党は、国のことを考える組織から利害を調整する組織へと様変わりしてしまったのである。
そしてこの「政党の異変」が政党を変化させ、これを決定的にしてしまったことがある。政党交付金制度である。これにより、政党は国費を受け取る国営となりつつ、民間の活動資金も受け取る。私的利害からなる政党で、国費と私費が一緒くたに取扱われるようになったのである。そんな現代の政党において、国費の利害と私費の利害、つまり国民の利害と民間の利害を同時に進められるほど、清廉崇高なものが存在するのであろうか。
政党とは利害の集合体であり、利害を持つ支援者によって支えられている。そんな私的団体が選挙による民意の反映を盾に数をなし、そんな輩で法案や国の諸事を決める国会で、様々な利害を超越し、国家や国民を守る意思決定がなされるわけがない。もはやこの仕組は欠陥である。
このように、国の力が内向きの利害調整にばかり注がれていれば、国家国民の総意を作り上げ、前に進めていくという機会にも巡り会えないだろう。何せ、国会は政党と政党が勢力争いをする場と化し、国の将来を託せるような醸成は微塵もない。
従って、今日のように、国としての外交が心もとなく、荒波にもまれてしまうのは、必至なのである。そして、戦後、経済動物として生き抜いてきた日本人の中に、国際政治に長けた在野の将がいるとも思えない。
しかし、このことだけで、日本外交が危うくなっているわけではない。我が国には国としての深刻な欠陥がある。
「中国は勘違いしている」人々がそう思う理由
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国際社会において中国の露出が増えることの危険性
最近の中国と言えば、尖閣問題、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞、反日デモ、レアアース、人民元レートなどがニュースとして取り上げられているが、いずれにおいても、中国政府の強硬姿勢が表面化しているのは見逃せない。
現に、そう、我々は、国際社会に対して横暴な態度を示す中国に脅威を感じ、この強硬姿勢を注視している。
かの国に、私たちはなぜ脅威を感じてしまうのか。